モンペリエの聖ロック
St. Roch de Montpellier
(上) Giorgione, Madonna and Child with St. Anthony and St. Roch, c. 1510, oil on canvas, Museo del Prado, Madrid
聖ロック (St. Roch de Montpellier) は 14世紀のフランスの聖人で、中世以来もっとも篤く崇敬されてきた聖人のひとりです。その生涯について歴史的に確かなことは何もわかっておらず、実在の人物ではない可能性も大きいと考えられています。
【聖人伝における聖ロック】
13世紀の聖人伝「レゲンダ・アウレア」(レジェンダ・アウレア LEGENDA AUREA)によると、聖ロックはフランス南部、地中海に面したモンペリエ(Montpellier 現在のラングドック=ルシヨン地域圏エロー県モンペリエ)の貴族の家に生まれました。両親には長い間子供ができませんでしたが、聖母に祈ると聖ロックが生まれたといわれています。生まれてきたロックの胸には赤い十字架の徴があり、ロックの成長につれて十字架も大きくなりました。
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両親が亡くなると、ロックはその資産をすべて貧者に施し、物乞いをしながらローマを目指して巡礼に旅立ちました。トスカナの旧街道を通ってローマの手前の町アックワペンデンテ (Acquapendente) まで来たところ、黒死病(腺ペスト)の患者たちに出会いました。普通の人なら一目散に逃げ出すはずですが、ロックは町にとどまって患者の看病を始めました。アックワペンデンテの黒死病流行がなんとか収まり、ロックがローマに向けて旅立とうとすると、今度はチェゼーナ (Cesena 現エミリア=ロマーニャ州) に黒死病が発生したとの知らせが届きます。巡礼の目的地ローマとは正反対の方角で、しかも遠隔の地であるにもかかわらず、ロックはまっすぐにチェゼーナを目指し、次いでそのすぐ東、アドリア海に面したリミニ (Rimini) でも患者の手当てに励みます。
聖人はその後ようやくローマに着きますが、永遠の都はペストのために荒廃しきっていました。聖人は3年間ローマに留まって、日々患者の手当てを続けました。聖ロックはイタリアにおいて数々の奇跡的治癒をもたらしました。
聖人がローマを出てフランスに向かったとき、黒死病は北イタリアで流行していました。聖人はふたたび町々で治療に励みますが、ピアチェンツァ (Piacenza) においてついに自身が黒死病に感染しました。患者となり、町を追われて森に入った聖ロックは葉のついた枝を組み合わせた小屋で死を待ちます。しかし聖人の飲み水のために奇跡的に泉が湧き出し、また日々のパンを犬がくわえて運んで来、聖人の体にできた傷口を舐めて癒したので、聖人は死を免れて健康を取り戻しました。
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この犬はピアチェンツァの領主であるパラストレッリ伯爵 (Palastrelli) の飼い犬でした。毎日パンをくわえてどこかに行く犬の行動を不思議に思った伯爵は、ある日犬についてゆき、聖ロックと出会ってその弟子となりました。後にスイスの山で苦行を重ねて徳を積み、その地名(ゴッタルト峠 Der Gotthardpass)を取って聖ゴタール (St. Gothard) と呼ばれるようになりました。
聖ロックはモンペリエに帰りましたが、こじき姿のゆえに誰も聖人を見分けることができず、スパイと間違われて投獄され、5年後に獄中で亡くなりました。聖人はモンペリエ随一の名家出身でしたが、栄誉を避けて名を口にしなかったために、最後まで気付かれなかったのです。ある日の朝、聖人が死んでいるのを牢番が発見したとき、牢内は微光に包まれていました。聖人が亡くなったのは 1327年8月16日と伝えられています。
14世紀、聖ロックの信仰はモンペリエ及び聖人が旅したイタリアの地域においてすでに広まっていましたが、1414年にコンスタンツでペストが流行したときに聖ロックの宗教行列が行われ、このとき以降ヨーロッパ中に広まりました。
特にヴェネツィアでは市民の尊崇を集め、1485年にモンペリエから聖遺物を盗み出しました。1478年に裕福なヴェネツィア市民の間で結成された信心会ラ・スクオーラ・ディ・サン・ロッコ (La Scuola di San Rocco) はこの聖遺物を納めるためにスクオーラ・グランデ (Scuola Grande di San Rocco) と、それに隣接するサン・ロッコ教会 (La Chiesa di San Rocco) を建てました。
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スクオーラ・グランデの装飾はティントレットが担当し、ティントレット自身と弟子たちによって、1564年から 1588年にかけて多数の作品が描かれました。
【聖ロックの図像学】
図像における聖ロックはひげがある巡礼者の姿で、つばの広い帽子とマント、巡礼者の徴であるイタヤガイを身に着けています。また頭陀袋と、水入れのひょうたんを下げた巡礼杖を手に持っています。
これらの特徴は聖大ヤコブとそっくりですが、聖ロックはパンをくわえた犬を連れており、太ももにできた腺ペストの傷を露出しています。聖人の足許に天使が降り立って、太ももの傷に香油を塗っている場合もあります。これらの特徴により、聖ロックは聖ヤコブと見分けることができます。
聖ロックの犬は常に聖人とともに図像に表されることから、フランス語ではいつも一緒にいるひとたちのことを「聖ロックと犬みたいだ」(C'est St. Roch et son chien.) と言います。またふたつのものが不可分であることを「聖ロックが好きならその犬も好き」(Qui aime St. Roch, aime son chien.) と言います。
フランス語では小さい犬(特にパグ)のことをロケ (roquet) といいますが、この語は聖ロックの犬に由来するとも言われます。碩学エミール・マールは「ヴィクトール・ユゴーが『聖ロックとその犬サン・ロケ』("Saint Roch et son chien saint roquet") と書いたとき、これほどまでに的確な表現と思っていなかったであろう」と述べています。(「ヨーロッパのキリスト教美術(下)」柳宗玄、荒木好子訳 岩波文庫)
【美術における聖ロック】
聖ロックは絶大な人気を誇る聖人ですから、美術のテーマとしても頻繁に取り上げられ、多数の絵画や彫刻で表現されています。
(下) Jacques-Louis David, St. Roch Asking the Virgin Mary to Heal Victims of the Plague, 1780, oil on wood, 260 x 195 cm, Musee des Beaux-Arts, Marseille
1720年、ペストがマルセイユに上陸し、市民 75,000人のうち、実に半数以上の 38,000人が犠牲となりました。このとき市民の祈りに応えて聖ロックが出現し、患者の手当てをしたと伝えられています。ダヴィドによる上の絵はその光景を描いたもので、マルセイユにあった検疫隔離所ラザレ・ダランク (Lazaret d'Arenc) の付属礼拝堂のための作品です。
【守護聖人としての聖ロック、その祝日】
聖ロックは流行病から守ってくれる守護聖人であり、犬と愛犬家、皮膚や膝に病気がある人、障害者、いわれ無き中傷に苦しむ人、外科医、ネクタイ職人、墓掘り人夫、古物商、巡礼者の守護聖人です。聖ロックの祝日は 8月 16日です。
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