年表用語説明 | 〜1919 | 1920〜 | 1930〜 | 1940〜 | 1950〜 | 1960〜 | 1970〜 | 1980〜 | 1990〜 |
<〜1919年> 1898 米西戦争
19世紀終わりになるとそれまでの大陸内での膨張という形から、資本主義の高まり、深まる恐慌の中で、海外に進出帝国主義の動きが強まった。1895年砂糖壷といわれたスペイン領キューバで独立革命が起こり、スペイン・キューバ戦争が起こった。1898年アメリカ戦艦が爆沈する事件が起こり、キューバを開放するという口実で4月宣戦した。戦争自体は半年でわずかな死傷者をだしたのみで済んだ。その結果キューバを占領下に置くとともに、このキューバ問題とは無縁の、フィリピン、プエルトリコ、グアムも植民地として獲得した。米西戦争は、植民地をめぐる帝国主義戦争であり、この勝利によってアメリカは広大な海洋帝国の足掛かりを作ることに成功したのである。
1903 フォード自動車会社設立
ヘンリ・フォードはこの年、フォード自動車会社を設立し、1908年T型フォードを発売した。これは量産できる、徹底的に標準化された車で、それを大量に安価で供給するために1914年ベルトコンベアシステムによる生産を開始した。これにより組み立て時間は短縮され、値段も3分の1ほどになった1915年には250万台だった車は25年には2000万台近くになっていた。フォードの残した功績は車を普及させたことというよりも、社会全体にこのシステムを広げ、現代の大量生産大量消費社会への扉を開いたことにあるといえる。
1903 ライト兄弟
ノースカロライナ州でライト兄弟が複翼機のフライヤー1号を59秒約260メートル飛ばすのに成功し、世界初の動力付き有人飛行となった。飛行機はこのころの技術者の関心の的であり、兄弟も自転車会社で生計を立てながら開発を行っていた。飛行機の実用性と戦争への利用価値の高さを確信していた彼らは、アメリカ軍に売り込み結局1908年フランスの企業連合とアメリカ政府から特許購入の申し入れがあった。1910年代に入ると多くの飛行機開発者が現れ、大飛行機時代へと突入していくことになる。
1908 日米紳士協定
日露戦争後日本の勢力拡大に伴い、アメリカの警戒心は強まり、アメリカの満州への鉄道資本の進出、西部への日系移民の増加に伴って、日米間の亀裂は深まった。その中サンフランシスコで教育委員会が大震災による校舎不足を口実に、反東洋主義の影響もあり、中国人・朝鮮人・日本人のすべての学童を特別校に隔離した。日本は強くこの差別に抗議したが、結局は日本からの移民を制限する日米紳士協定が結ばれ決着した。(その後この問題は1913年カリフォルニア州が日本住民の財産所有権を拒否した排日土地法で再燃する)
1909 全国黒人向上協会
リンカーン生誕百年の1909年2月12日に「市民的・政治的自由のための戦いを更新する」ための全国会議が開かれ、全国黒人向上協会(NAACP)が生まれた。その基本的な目的はアメリカの公的生活での差別を一掃することで、彼らは「千百万人のアメリカ人を肉体的に借金のために奴隷のように働かされる状態から、精神的に無視されることから、政治的な権利剥奪から、そして社会的な侮辱からそれぞれ解放されるようにしたい」と訴えた。その後NAACPは黒人の間に広く浸透している感情を政府に反映させる機関として重要な役割を担うようになる。
1914 第一次世界大戦
第一次大戦が始まるとアメリカは、直接関係のある戦争とは考えず、中立を宣言した。しかし、多くの国民は英仏の側に立ち、ウィルソン政権も英仏よりの通商政策を取った。ドイツがUボートによる潜水艦作戦を取り始めると、アメリカ人にも被害が出たためウィルソンは抗議し、いったんはドイツ側も自粛したものの、1917年再びドイツがUボート作戦を再開すると、対独国交を断絶し「民主主義の安全を守るために」という理念の下宣戦した。それに対し国内では反戦運動が高まったため、政府は法を制定して思想統制を行い、反戦主義者を非国民として投獄した。その中ウィルソンは大戦の異議づけと戦後の国際秩序再建の基本原則を記した「14ヶ条」を公表した。その中で秘密条約の廃止・軍備縮小・国際関係の民主化・� �際平和機構樹立などを掲げた。
1918年戦争は連合国の勝利で終わった。この大戦によりアメリカは国際社会の中で大きな転換期を迎える。建国以来それまでアメリカは経済的には資本輸入に依存した債権国であった。しかし、大戦を通しヨーロッパ諸国に大量の物資を輸出する中でその債務が消え、逆に債権国になった。これによってアメリカはイギリスと並び資本主義者会の中心へと成り上がっていったのである。
またウィルソンの平和機関としての国際連盟結成という意志とは裏腹に、パリ講和条約でドイツは大きな損害を受け、逆にヒトラー、第二次大戦へと続くナショナリズムを高める火種となったということも忘れてはならないだろう。
1915 KKK復活
KKK(Ku Klux Klan)はもともと南北戦争後に北部白人・黒人から、旧南部白人の権利を守るために生まれた秘密結社で、1915年人種主義にとどまらず、道徳・愛国・拝外主義、法の秩序をモットーとする組織として復活した。一時は400万の団員をようし、積極的な政治参加を行って禁酒法の実施や、移民制限法、進化論教育禁止法などの運動や、女性の純潔の防衛を訴えるなどし、破るものにはリンチを加えた。KKKは南部州だけでなくテキサス、カリフォルニアなどにまで勢力を広げたが、具体的な成果を上げることはできず、1920年代後半には姿を消していった。
1919 禁酒法
19世紀末から起こっためざましい工業化に伴う改革運動は革新主義として盛り上がりをみせた。大都市では政治、社会の浄化を目指す市政改革が行われた。禁酒運動にはもともと、19世紀末の反酒場連盟などがあったが、1919年禁酒法が実施された。しかしこれはかえって、酒の密造・密売などを通して、アル・カポネをはじめギャングの勢力を強める結果となり、世論の対立が高まり、1933年に廃止された。
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<1920〜1929> 1920 司法省による赤狩り
急進主義、とりわけ共産主義への恐怖そして敵対の意識、即ち「レッド・スケア(赤の恐怖)」は、ロシア11月革命、ヨーロッパでの革新運動の広がり、コミンテルンの結成、そしてアメリカ国内での労働運動の高揚などによって、第一次大戦以後、広まりを見せていた。こうした中、1919年春、政府高官に宛てられた36の郵送爆弾が発見され、6月には法務長官A・ミッチェル・パーマーの自宅前で爆弾が爆発するという連続爆弾事件が発生した。事件は両方とも解明されないままであったが、疑いは急進主義者へと向けられ、人々の「レッド・スケア」の根拠となった。パーマーは司法省内に「急進主義対策部」を設置し、J・エドガー・フーヴァーをその長に任じた(このフーヴァーの部局が後にFBIとなる)。
1919年11月に、まず赤狩りが行われ、外国人249人がその革命信条や組織への加担を理由に移民法によって強制送還された。翌1920年1月には更に大規模な赤狩りが行われ、合衆国市民を含む4000人以上の急進主義者が逮捕された。
1920 憲法修正第19条(女性参政権)
合衆国憲法において投票権は第一条第二節で定められている。これに基づいて諸州は自州の州民のうち誰が選挙権を有するのかを決めることが出来る。そして時代の変化に伴って何度か憲法改正が行われ、投票権に新しい条項が加えられていった。
まず1868年に修正第14条が、これまでの州の選挙担当官吏による差別的な取り扱いを禁止するために適用された。続いて1870年に修正第15条で、選挙権が人種等によって差別されないことが保証された。しかしこの段階ではまだ性別による差別があった。そしてそれから50年後の1920年、修正第19条によって、選挙権が性別によって差別されないことが保証された。
1925 スコープス裁判
スコープス裁判とは1925年、テネシー州デイトン高校の生物教師ジョン・スコープスを「反進化論法」違反で裁こうとした裁判である。
反進化論法とは進化論を学校教育の場で教えることを禁止する法律のことである。1920年代に入って保守的な神学理解をなすファンダメンタリスト(根本主義者)たちは、伝統を無視した文明の諸裏を危惧し、近代思想の代表とも言える進化論が神による天地創造を否定し、ヒトの道徳的、精神的な絶対的優位を揺るがしているとし、その進化論を禁止するよう立法運動を展開した。そして1927年には南部の13の州でこの「反進化論法」が制定されるに至った。
これに対して憲法修正第一条(信仰・言論・出版・集会の自由の保証)の蹂躙を恐れて、アメリカ市民的自由擁護連盟がテネシー州において法廷闘争を提案し、スコープスが同法違反者となることを申し出た。
この裁判は、検察側に民主党の大物政治家ウィリアム・J・ブライアン、そして被告側に有名な刑事弁護士クラレンス・グロウがついたため全国的な注目を集めることとなった。しかし陪審員が全員ファンダメンタリストであったこともあり、裁判としては原告側の勝利に終わった。が、この裁判自体が「反進化論法」の拡大に一定の歯止めをかけたこともまた事実である。
1927 リンドバーグ大西洋横断飛行に成功
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