2012年4月24日火曜日

Child Welfare History In The USA



体系化されたソーシャル・ワークは、「貧しい人々に対し、誰が責任を持つべきか」という問いから始まったと、「ソーシャル・ワークの歴史(1)」で説明しました。ここで言う「貧しい人々」の定義は、経済的に恵まれない人々だけでなく、社会的に不利な立場にある全ての人々を指し、子どもや障害者なども含んでいました。そして、そのような立場にある者に対する責任を誰が取るのかは、ソーシャル・ワークの歴史の中で変わっていきました。 

::入植前::
アメリカのソーシャル・ワークの歴史を説明するためには、入植以前の歴史、つまりイギリス「本土の歴史」から見ていくことになります。ソーシャル・ワーク初期の段階では、その責任は「教会」にありました。当時教会が担う役割は大きく、人々は教区に生まれ、そのコミュニティで生活をしていたのです。(ちなみに当時は、出生届、結婚届、死亡届などをはじめとする、人々の生活すべてを教区が管理していました。)


::入植後、植民地時代::

福祉は「教会」から「政府」の責任へと変わっていきます。

1515 年:カソリック教会が、メキシコ・シティに孤児院を設立する
1615 年:(イギリスで) 1601 年に制定された貧民救助法( Elizabethan Poor Law )に基づき、貧しい子ども達がイギリスの植民地に送られる
1729 年: Ursulines と呼ばれるキリスト教一派の人々が、フランス領ニュー・オーリンズ(アメリカ、ルイジアナ州)に孤児院を設立する

本土から植民地に送られた子ども達は、労働と引き換えに救貧院(poor-house)で暮らすことを許されていました。


::19世紀::

「施設に収容すること( institutionalization )」が好ましいと考えられるようになります。それまでは生活に補助が必要な人々(子ども、障害者、貧しい人々など)は、同じ施設にまとめて収容されていました。しかしこの時代になると、「聴覚障害者」「孤児」「精神障害者」というように、それぞれのニーズに合った施設が作られ始めました。

1790 年:サウス・キャロライナ州チャールストンに、公立の孤児院が設立される
1817 年:コネチカット州ハートフォードに、聴覚障害者のための学校が開校 ( = 現ギャローデット大学)
1936 年:マサチューセッツ州が、年少者労働を規制する


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::チャールズ・ブレースと NY Children's Aid Society ::
1853 年、メソジスト派の牧師チャールズ・ブレース (Charles L. Brace) が、ニュー・ヨーク・シティに「ニュー・ヨーク子どもを守る会(New York Children's Aid Society )」という団体を設立しました。彼はのちに「The Dangerous Classes of New York 」 ( 訳:ニュー・ヨークで危機にある人々) という著書を残しています (1872 年出版)。ブレースが意味した「危機にある人々」とは、ギャングや泥棒・・・などの危険な人々ではなく、「子ども達」を指していました。当時のニュー・ヨーク・シティには、孤児、アメリカへ移住する途中に親・親戚から逸れたり死別して身寄りの無くなった子ども達、家出をした子ども達、または施設に暮らす子ども達といった、いわゆる「ストリート・チルドレン」が溢れていました。ニュー・ヨーク・シティだけで、少なくとも10万人以上のホームレス・チルドレンがいたとされています。そういった子供たちが道端で物乞いをし、盗みを犯し、ギャング活動をし、売春をしている状況を危惧したブレースは、「子どもを守る会」を設立し、初の「プレイス・アウト・プログラム * (placing out program) 」を始めました。これが里親・養子制度の始まりです。

* この場合の「プレイス・アウト」とは、子どもを「引き離す」ことを指します。つまり、この時代、劣悪な状況にいる子ども達を都会から「引き離す」ことを意味しています。現在では、虐待やニグレクトを受けた子どもたちを親から引き離すことをプレイス・アウトと言います。

ブレースは、ストリートで暮らす身寄りのない子ども達こそが、社会問題の原因であると指摘し、その子どもたちは安全で安定した家庭環境で育てられることが必要だと考えていました。子ども達は汽車に乗せられ、アメリカ中西部各地に送られていきました。「孤児列車( Orphan Trains )」は、中西部の農家の家庭に里子として預けられることになります。 1930 年に中止されるまで、「孤児列車」は何百万人もの子ども達に新しい家族を提供したといわれています。 


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「孤児列車」は子ども達に家庭な的な環境で生活する機会を与えるという意味では斬新的なプログラムではあったものの、さまざまな問題を生み出すことになります。例えば、当時アメリカ中西部に暮らす人々は、本土(イギリス)の宗教的迫害から逃れてきた移民、つまりプロテスタントであったのに対し、「孤児列車」で運ばれてくる子ども達の多くは、後にアメリカに到着した移民で、ほとんどがカソリックやユダヤ教だったのです。そういった宗教観、生活習慣や文化の違いが引き起こす劣等感や差別だけでなく、新しい環境になじめない子ども達が多く出てきたことも事実で、子ども達に与えうる多大な心理的影響力への懸念が、このプログラムを廃止する 要因になったともいわれています。

::ニュー・ヨーク・シティの社会問題と対処法::
1854 年:初めての託児所が、ニュー・ヨーク・シティにできる
1863 年:ニュー・ヨーク・カソリック・児童の権利保護団体( New York Catholic Protectory )ができる。後に、アメリカで最も大きい児童の権利支援団体となる

1872 年:チャールズ・ブレイス著「 The Dangerous Classes of New York 」 ( 訳:ニューヨークで危機にある人々 ) が出版され、子どものプレイスメント(上記に述べたフォスター・ケア)に拍車がかかる
1875 年:「ニュー・ヨーク児童虐待を防ぐ会( New York Society for Prevention of Cruelty in Children )」が設立される(=児童保護局の前身)

「ニュー・ヨーク児童虐待を防ぐ会」が 1875 年に設立されるまで、子どもを虐待やニグレクトから守る法律や団体はありませんでした。子ども達が虐待を受けているといったケースが注目されるようになり始めましたが、当初はそれを扱う機関がないため、「ニュー・ヨーク動物虐待を防ぐ会( NY Society for Prevention of Cruelty in Animals )」の弁護士が、児童虐待に対処していました。 


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::施設収容をなくす動きへ::

1899 年:シカゴに、初の少年裁判所が設立される。
1902 年:ホーマー・フォックスが著書「 Care of Destitute, Neglected & Delinquent Children 」(直訳:貧困にいる子どもたち、ニグレクトされている子どもたち、非行に走る子供たちに必要なケア)の中で、フォスター・ケアに携わる人々(=里親)に手当てを支給することを提案する
1909 年:ホワイトハウスで、子どものための協議会 (Children's Conference) が初めて催される。
 ・青少年のニーズにあった法整備や裁判所が必要と考えられるようになりました。
 ・孤児や虐待・ニグレクトを受けた子ども達をケアする里親に、「国」が手当てを支給するべきであると、ホーマー・フォックスが著書の中で指摘しました。 

1909 年、時の大統領セオドア・ルーズベルト率先の元で、子どものための協議会が催される。議論されたテーマは、
 ・教育の義務化
 ・出生登録の整備
 ・ 連邦の児童福祉局の設置 
これがきっかけで、 1912 年に児童福祉局法(The Children's Bureau Act )が制定さ れ、連邦児童福祉局(the U.S. Children's Bureau)が設置される。

::児童福祉における公的役割::
福祉の責任が、ますます「国」「連邦政府」のレベルになり始めます。

1911 年:イリノイ州で、母親支援制度(Mother's Aid )が制定される 
 ⇒後の「 扶養児童のいる家庭支援制度 (Aid for Families with Dependent Children)」の 先駆けとなる
1912 年:連邦児童福祉局 (U.S. Children's Bureau)ができる
1916 年:連邦児童労働法 (Federal Child Labor Law) が制定される
 ⇒ 1918 年に中止される

児童福祉が発達する過程には、女性達の活躍がありました。
 ・軍隊を通して、その家族に子育てに関する情報を配った
 ・乳児の死亡率を下げるための運動を行う(baby saving campaign)
 ・出生登録、記録を取る
 ・
児童労働の反対運動


また、危機的な状況にいる子どもたちを気にかける一般の人々も、児童福祉の発達に貢献することになります。デンマーク移民のジャーナリスト、ジェイコブ・リース(Jacob Riis )は、 1890 年に出版した著書「How the Other Half Lives」(訳: 社会の多数を占める貧困者たちの暮らし )で、ニュー・ヨークのハーレムという劣悪な住宅環境に暮らす子ども達の様子を、ドキュメンタリーにして綴りました。また彼は、ランタンを使って、写真を壁に投影しながら、貧窮な状況にいる人々の様子を伝えることで、寄付を募る活動をしたりもしました。後に、連邦政府に公営住宅開発運動を促すきっかけとなります。

追記

「孤児列車 (Orphan Trains) 」について、補足します。

この時代、「孤児(= Orphan )」という言葉は広い意味で使われていました。親も家族もいない完全な孤児だけでなく、親はいるけれど孤児のような状況に置かれている子ども達もたくさんいたのです。移民としてアメリカにやってくる過程で、親や家族を失うことはよくありました。当時は、託児所や学童保育などはなく、また親戚も近くに居ないことから、母子・父子家庭の子ども達は「半分 孤児 (half orphan )」のようなものだったのです。「孤児」の中には、両親がいる子どももいました。家族が大きくなりすぎて、両親が子ども一人一人をケアできなくなった場合です。他にも、家出をしたり、虐待をされた子ども達など・・・「孤児」にもさまざまな背景を持つ子ども達がいたのです。

また、当時「孤児列車」を主催していたのは、ブレースの「ニュー・ヨーク子どもを守る会」だけではありませんでした。他にも、「ニュー・ヨーク捨て子病院( New York Fondling Hospital )」や、マサチューセッツ州のボストンでも、同じようなプログラムが行われていました。(それは、ボストン・プランと呼ばれていた。)

しかし、ボストン・プランとブレースの孤児列車には、大きな考え方の違いがありました。前者では、里子に出した後、家族が「召使」のようにその子どもを使うことがあったのに対し、ブレースはこれを許しませんでした。フォスターにいる子どもは、その家族の一員として、他の子ども達と同じアットホームな環境、機会を与えられるべきだとしたのです。

ニュー・ヨーク捨て子病院は、カソリックの修道女達によって運営されていました。事情があり、親から手放された乳幼児、子ども達を修道女が引き取り、里親・養子プログラムを始めたのです。 


ブレースの孤児列車では、近々電車が通る町に、孤児が送られてくる知らせが前もって届きます。里親・養子に興味のある家族が、その当日駅や市庁舎に集り、並べられた子どもを選んでいったとされます。そこで同伴していた子どもを守る会の役員が、家族と契約を交わし、子どもたちは引き取られていきました。

一方ニュー・ヨーク捨て子病院は、事前に子どもを養子にしたいという連絡を家庭から受け、どのような子ども(目の色、性別、髪の色など・・・)を望んでいるのかを聞き、それにあった子どもが生まれたら、いついつの電車でその家庭の町に子どもが行くから引き取りに来るように、といった風に、全てが前もってアレンジされたプログラムでした。

また、ブレースの孤児列車では、子ども達をどのような宗教で育てるのかは、全て里親の判断に任されていたのに対し、ニュー・ヨーク捨て子病院から里子に出された子ども達は、全てカソリックの家庭に送られたのでした。

これら全てのプログラムは、 1930 年ごろに事実上なくなりました。その理由として、子どもに与えた心理的影響を挙げましたが、他にも考えられる原因は・・・
・ 世界大恐慌の始まりと共に、子どもを受け入れ育てることが、それぞれの家庭にとって経済的負担になり始めた
・ 子どもを守る法律の整備も進み、孤児列車を実質的に続けることが難しくなった
ことなどです。



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