2012年5月18日金曜日

ぼくらの60’s & 70’s・・・そして今。 - Yahoo!ブログ


前回からのつづき

当時10億ドルとも言われた莫大な日本の資金(つまり、ぼくらの血税だ)が、ベトナム戦争でアメリカ軍に注入され、アメリカは結局何も得ることなくベトナムから撤退に追い込まれてしまう。

もっとも日本は、その資金援助を盾にとって、アメリカから小笠原と沖縄を取り戻したのだから、このときの日本の外交はしたたかであり、見事ではあった。

時の総理大臣佐藤栄作は、沖縄返還の功により、ノーベル平和賞までいただいてしまうのだからたいしたものだった。

ベトナム戦争に裏で加担し、"非核三原則"を国民に約束しながら、沖縄への核の持込や、原子力潜水艦・戦艦の本土基地への寄航を黙認し、それでノーベル平和賞をもらってしまうのだから、本当にエライ政治家� �った("死の商人"ノーベルも、天国・・・だか、地獄で、さぞかし驚いていることだろう)。

おまけに、当時中国で核実験が実施された際に、アメリカに対し、「もし日本が中国に侵略されたら、核で報復をするように」と(今の韓国情勢のようだね!)、要請したのも"ノーベル平和賞"受賞の佐藤栄作だった。↓


佐藤栄作にとっては、ぼくたちの10億ドルでノーベル賞を買ってしまったようなものだった。

その後、フセインのイラクが一方的にクウェートを侵略して始まった、1990〜91年の湾岸戦争において、日本はたった半年間のこの戦いに、総額130億ドル(約1兆4千億円)という経済負担をまたもやアメリカから押し付けられることになる。


軍隊を制御する必要があります英語の内戦

この額は同じく援助を強いられた他国に比べ一桁も二桁も額が飛びぬけており、クウエートなど、当事者国を除けば最大規模の金額だった。

憲法の呪縛に縛られ、人的貢献ができずにぐずぐずと国内でもめている内にどんどんと金額が嵩んでしまったものだった。

国庫からだけでは負担できなく、国民にそのための増税(湾岸戦争でそんなことまでさせられたのは、結局日本国民だけだった)までして絞り取られた金だった。

6ヶ月間の戦争が終わってみれば、どこからも感謝されず、感謝をされないどころか、「人を一人もよこさず、金だけで済まそうとした」ということで世界中から白い目で見られることになってしまう。< br/>

おまけに、アメリカのメディアからは「日本は恥ずかしくないのか!」というキャンペーンまで張られてしまう。

さらに後でわかったことだが、130億ドルもの大金は、当時の国連の多国籍軍に渡されたのではなく、すべてアメリカ軍が懐に納めてしまっていたのだった(この額は、湾岸戦争における米軍の直接戦闘経費の全額に相当していた)!

・・・というのに、なんで日本国民がアメリカからそんなことを言われ、肩身の狭い思いをしなければならなかったのだろう。

湾岸戦争の終結時に、クウエートが多国籍軍の活動に感謝する新聞広告をワシントン・ポストなどに2回にわたって掲載したことがあった。

アメリカなど30カ国、多国籍軍に貢献したすべての国名が並べられ感謝の言葉が綴ら� �ていた。

・・・のだが、最大の資金援助国、日本だけははずされて(忘れられて?)しまっていた・・・のだった。


イリノイ州で第二の都市とは何か

日本と同じように、憲法によって軍隊を海外に派遣できないことになっていた、ドイツでさえもこの広告には掲載されていた(ドイツ軍はNATO軍の後方支援を行っていた)・・・というのに。

時の総理は海部俊樹だった。

彼には文部大臣時代にも前科があった。従軍慰安婦問題などで中国と韓国から圧力を掛けられた際に、何の調査もしないうちに検定済みの教科書を強制的に書き換えさせてしまった(直後、マスコミの追求にあったときには雲隠れしてしまい、結局逃げたままうやむやにしてしまった)。

その後の調査では、結局根拠となる資料も証人もまったく見つけることができなかった。・・・にもかかわらず、日本 は両国に謝罪までしてしまう。中国と韓国に日本の弱腰外交を吐露してしまっただけのことだった。

それが今日、中韓が強気で日本に迫るきっかけとなってしまった(日本は押せば簡単に引いてしまう国だと思われてしまった)。

海部さん、あなたはこんな大金を国民から搾り取って、なにか(そう、北方領土でも取り返していればね!)してくれたのだろうか?

その後、金魚のなんとかのごとく小沢一郎にくっつき、振り回され、捨てられ(まるで演歌の歌詞みたいにね!)、自民党離党からさまざまな新党を渡り歩き、そおっと再び自民党に戻っていた(・・・のを最近までぼくは知らなかった?!)。

さて、ビアフラの話に戻る事にしよう(腹立ち紛れに大回りをしてしまったが・・・)。

< p>ビアフラ陥落のほんの直前まで現地にいたのが、作家のカート・ボネガット(以前に紹介したね)だった。


ここで、平和条約が調印された

彼は最高責任者、オドウメグウ・オジュク将軍と直接会い、インタビューをしていた。

将軍は語る。

「ビアフラがいま経験しているものに最も近い先例といえば、ワルシャワのゲットーにおけるユダヤ人でしょう」・・・彼らはたとえどんなことをしようとも、必ず殺されることを知っていた。だからこそ、戦って死んでいったのだ。

「民族大虐殺を証明するのは困難です。もし一部のビアフラ人が生き残ったら、民族大虐殺はなかったことになる。もしビアフラ人がひとりも生き残れなかったら、誰が虐殺の非を訴えるでしょう」(*将軍のこの話は覚えていてね。この話の最後にまた将軍が登場するからね!)

・・・そう、� �チのゲットー以上の虐殺が行われたというのに、世界はもう忘れてしまっている。

うーん、今日はここまでかな。

湾岸戦争が終結した1991年は、ソビエト連邦が崩壊した年でもあった。1989年11月にベルリンの壁が崩壊し、翌年東西ドイツが統一されたあたりから世界は大きく動き出した。

国内でバブル経済が弾け飛んだのもこのころだった。

ソフトバンクの白戸家のお母さん役でおなじみの樋口可南子が↓


日本で初めてのヘアヌードに挑戦した「water fruit」が発売され、(そのころの樋口さんね!)


(あまり変わってないね!)


宮沢りえが「Santa Fe」でヘアブームに火を付けたのもこの年だった。↓(こちらもそのころのりえちゃんだ!)


ドラマでは、鈴木保奈美と織田裕二の「東京ラブストーリー」がヒットし、小田和正が歌う主題歌、「ラブ・ストーリーは突然に」がヒットチャートを賑わせていた。↓


つづく



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