ポーランドは、バルト三国の南に位置し、ドイツやチェコ、スロバキア、ウクライナ等と国境を接する国です。面積は日本の4/5ほど。人口の97%が西スラブ系のポーランド人で、主にカトリックを信仰しています。このため、同じスラブ民族でも宗教の異なる東スラブ系のウクライナ、ベラルーシ、ブルガリアなどとは文化的、言語的に距離があります。例えば、ポーランド語はアルファベットを使いますが、上記の国々ではキリル文字を使います。ポーランドは、文化的にはローマ・カトリックとのつながりが深いと言えます。
ポーランドとは「平原の国」という意味で、その名が指すとおり、南部の一部を除いた国土のほとんどは広大な平野です。主要な都市には、現在の首都のワルシャワや、ハンザ同盟の街であり「連帯」発祥の地であるグダンスクなどがあります。また、古都クラクフは、ヤギェウォ王朝時代の首都であり、第二次世界大戦中にはナチス・ドイツの司令部が置かれていました。ポーランドの歴史を見続けてきたこの古都は、戦火を逃れた後、都市として世界遺産に登録された第1号です。
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ポーランドという国が建国されたのは10世紀。14世紀から始まったヤギェウォ王朝時代には欧州の大国として繁栄し、16世紀に国土が最大となりました。しかし16世紀後半から選挙王制に移行すると、地方の貴族が勢力を持つようになり、徐々に国力が低下していきます。そして18世紀後半には、隣接していたロシア、プロシア、オーストリアの三国に分割され、1795年にポーランドは消滅。第一次世界大戦が終了する1918年に独立するまでの123年間、ポーランドは世界地図から姿を消すことになります。
第一次世界大戦後、ポーランドは独立を回復するものの、第二次世界大戦では再びナチス・ドイツとソ連によって分割されます。終戦後、ポーランドは再度独立を果たしますが、大戦を経てソ連の影響下に組み込まれていき、1947年に行われた選挙で共産勢力が大勝し、社会主義国となりました。
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このため、1950年代以降のポーランド国内では暴動や民主化運動が各地で頻繁に起こりました。1980年には社会主義圏では初めての、労働者による自主的かつ全国規模の労働組合「連帯」が結成されますが、翌年戒厳令が敷かれると、「連帯」は地下活動を余儀なくされます。その後しばらくは厳しい時代が続きましたが、民主化への流れは止められず、1989年の円卓会議を経て、平和裏に体制転換を達成。ここに、旧ソ連圏で初めての非社会主義政権が誕生しました。16世紀後半、欧州の各国が未だ王政にある中で、民主的な選挙により為政者(国王)を選ぶことを始めたポーランドだけに、民主主義に回帰することは当然といえば当然だったのでしょう。
その後、「欧州への回帰」を目指していったポーランドは、1999年にNATO加盟、2004年にはEU加盟と、短期間で欧州への復帰を果たしました。EUの加盟国は2009年1月現在、27か国ですが、現在のニース条約の下では、ポーランドは、EU理事会において、議決権345票のうち、独・英・仏・伊の29票に続く27票をスペインと共に与えられています。2004年以降に加盟した中・東欧等の新規加盟国(12か国)の中で、ポーランドは、最大の人口と経済規模を持つ国であり、EUの中でも存在感を示しています。
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さらに、EUの中でも東側に位置するポーランドは、EUの東方政策においてもイニシアティブを発揮しています。加えて、「連帯」の運動からEUへの加盟といった一連の民主国家への移行経験を活かし、ウクライナやグルジアなど、周辺諸国への支援を重視する政策をとっています。また、世界の平和と安定に対する国際貢献も積極的に行っており、現在アフガニスタンやコソボ、ゴラン高原、レバノン、チャド等に、約3,600名の兵士を派遣しています。
ポーランドの経済は、好調な輸出や海外からの直接投資、個人消費の増加を背景に、2006年は6.2%、2007年は6.7%と高い成長率を示しました。昨今の金融危機の影響は現時点では限定的ですが、欧州の一部の国では景気が後退しており、ポーランド経済の先行きについても厳しさが増すリスクがあります。日系企業も、シャープ、東芝、トヨタ、いすゞ、ブリヂストン等、自動車や家電関連の製造業を中心に、現在約200社がポーランドに進出。ポーランド人の誠実な働き振りは、現地でも高く評価されています。
ポーランドは伝統的な親日国としても有名で、市民レベルでも様々な交流が行われています。その親日感情の源は、日露戦争やロシア革命、第二次世界大戦にさかのぼります。ロシア革命の直後の混乱の中で親を失ったシベリアのポーランド人孤児(政治犯等として流刑になっていたポーランド人の子弟)は、飢餓と疫病の中で悲惨な状態にありました。他の国が顧みなかった孤児たちを救ったのは、日本政府と日本赤十字でした。孤児たちを日本国内に引き取り、元気を回復させポーランドに送り届けました。また、第二次世界大戦中の有名な「命のビザ」によっても、ユダヤ系ポーランド人の多くの命が救われました。
スラブ民族の中でもポーランド人は、情熱的で感情豊かな人々としても知られ、「スラブのラテン」とさえ呼ばれることがあります。この情熱はワルシャワ蜂起にも現れています。情勢が決定的に不利であっても祖国のために立ち上がり、最後まで抵抗し、ワルシャワは壊滅的に破壊されてしまうのですが、そうせざるを得ない「熱い」ところがポーランド人にはあるようです。また、昔の日本の善意ある行動をポーランドの人々は忘れることなく、阪神・淡路大震災の際には、震災児童20余名を二度にわたってポーランドに招待し、ポーランドの家庭で受け入れるなど義理堅いところもあります。
日本語や日本文化に関しても、ポーランドの人々は非常に高い関心を示しています。世界的にも評価の高い映画監督のワイダ氏は、少年時代に見た北斎に強い感銘を受け、祖国に浮世絵を展示する博物館を作るという夢を抱き続けました。そして1994年、日本政府・企業などからの支援を得て、浮世絵などの日本美術や技術を展示する「日本美術・技術センター(通称「マンガ・センター」)」をクラクフに設立しました。ポーランドでは、日本研究や日本語教育も盛んに行われており、ワルシャワ大学を始め多くの大学で日本語学科が設置されているほか、2009年1月から日本文化発信ボランティアによる日本語指導や、マンガ・センターでの日本語の授業などを通し、日本語を学習する機会が増えてきています。
このように、日本とポーランドは、共通の価値観と強い信頼関係で結ばれています。日本の国連安保理常任理事国入りも、ポーランドは一貫して支持の姿勢をとっており、日本にとってポーランドは、国際社会における頼れるパートナーでもあります。2008年10月にはシコルスキ外務大臣が訪日し、「日本・ポーランド共同プレス・ステートメント」を発表。12月にはカチンスキ大統領が訪日するなど、日本・ポーランド国交樹立90周年を迎えるに当たって、要人の訪日も相次いでいます。両国は今後も、この友好な関係を多くの分野で更に発展させていくよう、努力を続けていく必要があります。
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